向かいに座る春子が湯のみを置いて短くうなるのと、私が二枚目の煎餅に歯型をつけたのはほぼ同時だった。
無駄に音を出して煎餅を食う、食いかすには気にしない、それが私が知る煎餅の一番おいしい食べ方だからだ。行儀の悪い事は承知の上だが、春子が閉口している理由は私のせいではない。いや、私の言った内容が原因であって、私のせいではない。
先日、川から猫を拾い上げた時の事だ。あの時の笑乃助は、明らかに異常だった。岩本の家へ向かう途中の道から、川に向かって、全力で走り出した。気付くわけが無い、あの場所から300メートルは離れていたはずだ。人間離れした超感覚か、あるいは何かしら非科学的な能力か、もしくは逆に現代にはありえないオーバーテクノロジーか。笑乃助の最近の異常行動に相まって、先日の救出劇は決定的だった。
「笑乃助に何者かが接触している可能性がある」
私が春子に告げに来たのは、つまりはそういう内容だった。
「他に何か見たか?」
春子は、顎にかけていた右手の人差し指と、親指で輪をつくり、そこから覗き見るように私を見た。その仕草の意味を解釈して、煎餅を齧るのを中断する。
「私が川から這い上がった場所から、真西に500メートル程離れた上空に人影を確認したよ。その時の笑乃助から察するに、笑乃助に接触した者とみて間違いないんじゃないかな。裸眼でしか見てないけど」
「『覗いて』ないのか」
「流石に凝視できないよ、目合ったら気まずいじゃん」
指で作った輪に視線を通す事で、私の視力は無限に広がる。私の中に住むアルゴスという獣に、目を借りるのだ。やろうと思えば地球の裏側から、月の尻を眺める事だって可能だ。可能ではあるが、実行に移す事は出来ない。ルールがあるのは、どの世界でも一緒だ。そしてルールを破った者には罰が科せられるのも同様だ。出る杭は打たれるし、鳴いた雉は撃ち殺される。個性の強すぎる生徒はクラスになじめない、やがていじめへと発展するだろう原因は、最初から隠しておくほうが懸命だ。
クラスから、世間から、世界からはじき出されないように、誇りを傷つけないように、私達は「個性」を隠し通して生きていくしかない。注意深く周りに合わせて、孤立しないように気をつけて。ボロを出さないように口をつぐんで、不自然は無いように明るく笑って。そんな人生を子供達には歩ませない為に、私達は注意していたはずなのに。
「千里、どうしたんだ?」
春子の声にはっとして顔を上げる。天井から、笑乃助の足音がゆっくりと落ちてきた。
私は半分になった二枚目の煎餅を、噛み砕く。醤油の味が、薄く感じた。
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